タカオ日記 12月号      



12月1日 22673 1182
日曜日としては、多分最後の七五三の撮影があった。あとは成人式の前撮りや家族写真など、そして年賀状用の撮影がある。今年は、スタッフががんばったため、美容室とのコンタクトが増え、成人式用の各店の独自のサンプルを作るために撮影が始まった。以前美容師さんを対象にした写真教室を開催したことがあるが、その時に参加した美容師さんからの要望でもある。成人式の撮影は、以前から知り合いの方のお孫さん、やじうまを見て下さっていた。宇品では、普及率が高い。昨年まで2年続けたサンタクロ−スの宅配便。今年はしないことになったが。お母さんが悲痛な叫びを持ってやって来られた。子供が待って居るので是非やって欲しいということ。今年は、女房と二人でクリスマスを過ごすために、三和の森に行くことになっている。困った。家族写真を撮りに来られた方は、昨年から撮り始めた。同じポ−ズで毎年撮って行く。昨年は、二人だったが、今年は、8ヶ月の赤ちゃんが増えた。毎年続けて行ければ良いのだが。何組かお客さまにいる。全員立って撮る。子供の成長を実感出来るようにとの願いからポ−ズが決まった。

12月2日 22709 1192
月曜日は写真教室の日。午前中はTSS住宅展示場にてあった。第2.4月曜日から 第1.3月曜日に変更したため、水野夫婦が来れなくなった。申し訳ないことをしてしまった。二人は、ついに四国八十八ヶ所の結願をした。メ−ルで報告をもらった。今後は、中国地方の観音巡りをするとのことだった。私は、広島新四国八十八ヶ所を回ることにしている。現在、7ヶ所の納経が済んでいる。先は、相当長い気がする。スタジオの彗星という携帯用のストロボがが最近調子が悪く、いくら充電してもすぐに不足警告ブザ−がなる。調べてもらったら、充電用バッテリ−の寿命が来ていた。知らなかった。夕方はサティの写真教室。金子さんが久しぶりに来て作品を見せてくれた。だいぶ作風が変化してきている。画面に広がりが出てきている。精神状況が変化してきているのだろう。近所のガソリンスタンドのオ−プンで撮影の依頼が来た。光線具合等をチェックに行かせた。オ−プン時はばたばたしてなかなか撮影どころではないのだが、なんとかしなくてはならない。

12月3日 22747 1199
4時30分起床。心と身体の準備をして6時30分宇品を出発。7時すぎには、可部に着いた。シ−ズンを迎えた酒蔵の撮影。シャイな杜氏さんに気を使いながらの撮影が始まった。蒸し米から室に入り酒母造り。平行してタンクに初添えと言われる作業である。朝から、ほんのりとした香りの蒸気が立ちこめる。10時前には撮影は終了。時間が余ったので、染と茶に行った。中道夫婦が元気にしていた。しばらくお茶を飲み話しをした。四国の話しが中心になる。その足で、福王寺へ行った。納経をしてもらうためである。紅葉はすでに、ほとんど終わり、ハゼの葉が赤く色づいているくらい。住職は不在だったので、お参りだけして帰った。夕方からは、ゆかり屋さんが来られてTKプロジェクトの話しをして帰られた。本格的に動きたい態勢に入った。がんばらなくては。

12月4日 22760 1205
5時半起床。準備をして松山にス−パ−ジェットで8時30分に出発した。半年ぶりの松山である。以前とは、景色が違った見える。観光港が近づき陸が見える。民宿 佐伊知のある堀江海岸が見える。52番札所のある山が見える。石手寺から市内へ入った道もある。そして、今から行くところは、遍路の途中に表敬訪問をした愛媛県美容理容専門学校である。市内の街角から、タクシ−に乗り遍路道からはかなり離れた小栗へ行った。残念ながら、その時は不在で会えなかった。今回は会うことが出来「vol2.旬遊」を渡した。「歩き遍路の記憶」も見せた。また、学校から最初タクシ−に乗った場所に戻り、再び三津浜のJR駅を目指して歩いた。そこで、女房と合流して1日一緒に歩いた民宿 佐伊知は、新しい民宿で
料理が美味しくものすごいボリュ−ムで半分も食べきれなかった。今回、リクル−トの営業担当の田中さんが興味を持っていたので紹介した。出張が多い人なので、気晴らしには良い民宿だと思う。撮影は、困難を極めた。80名程度の生徒を教室で、集合写真撮影。天井が低いのでライトがうまく回らず、狭い場所に多くの生徒を入れるので、魚眼を使っての撮影になった。1.2年と別々に撮り。最後別の場所に移動して、10分間で生徒全員170名くらいを撮った。証明を確認する暇もなかった。出来上がりが心配。大変な1日だった。途中、撮影中に携帯電話がなりだし、慌ててスイッチを切るハプニングもあった。

12月5日 22826 1218
木曜日は久しぶりにゆっくりと起きた。最近は、ほっておくと7時頃にならないと目が覚めない。あれほど痛かった肩の痛みが最近、朝薄れて眠れる。四国から帰った頃は、5時には目が覚めていた。6時頃になるとうずうずすして歩いた事もあった。午前中は、旬遊の撮影済みフィルムをデザイナ−の黒川さんの所に届けた。先輩の早川さんもいて、しばらく話しをした。日本酒についてである。知り合いの千代乃春のむすめさんのことが、NHKで放送されたことだった。古いしきたりの世界で、若い女性が目立つとバッシングにあったり、マスコミはもてはやす傾向にある。そのことを業界の人は、どう思っているかなど話しはつきなかった。午後から、楽々園にあるBOBへジ−ンズを買いに行った。ここでしか買わない。個人点としては、がんばっているが今の世の中苦戦をしているような気配は、ここだけではない。年輩の女性がお客さまとしていた。若い人たちよりか、この世代をしっかいつかんだ方がいいかもしれない。夕方から、リハビリに行った。注射も4回目、5回で終了。本当に治るのか心配である。マッサ−ジの人は、熱心にしてくださる。しかし、何しろ繁盛医院なので、又刺されるのが辛い。先生に会って、注射をする時間は、5分もないだろう。待ち時間は、1時間近くに及ぶ。

12月6日 22876 1231
金曜日は、10時からガソリンスタンドのオ−プン前完成写真撮影に出かけた。近隣にある。港から市内中心部に向かう新しい道である。宇品も湾岸道路j建設に伴い大きく変化していく。私たちの住んでいる、電車通りは、道幅も狭くどんどん歴史から取り残されていく感がある。高齢者の街としての生き様はあるが、車という近代兵器によって街の人々の行動範囲は大幅に変わった。ガソリンスタンドは、セルフである。ヒット店になることは間違いない。そばには、高層マンション群が立ち並び始めている。リクル−トに、松山の美容学校のフィルムを届けた。教室で90名近い生徒の集合写真や講堂での180名くらいの集合写真も、びっくりしていた。午後から、街中にある美容室に行った。作品を撮るための教室開催についての打ち合わせである。美容室にありがちな事なので、しかtないとは思ったが、お客様が多く、結局オ−ナ−とは余り話しが出来なかった。やはり、スタジオ仁来てもらい、覚悟を決めて話しをしないと気が散って話しどころではないようだ。夕方から、建築家の福島さんが来られて、スタジオで話しをした。宮島の宮郷さんのギャラリ−に作品を貸すことになった。2週間の予定で、企画展として展示されることになった「藤原隆雄の写真展 文弥人形」というタイトル。スタジオにあるyoshii9も聞いてもらった。びっくりしていた。今後おもしろい展開があれば良いかと思う。プロデュ−サ−なので、出しゃばらないように気を使う必要がある。

12月7日 22903 1238
土曜日は、午前中は、七五三の撮影があった。まだ、終わってはなかった。午後からは事務処理を1時間程度で済ませて、旬遊の取材に行った。その前に、成人式を撮影したお客さまに仕上がった年賀状を届けた。そして、美容室モリトモさんへ、出来上がった写真集を届けた。娘さんの成人式からはじまり、白無垢・着物姿の写真を1冊の本に編集した。喜んで頂いた。最後は、流川界隈にある50年の歴史を持つレストランへ行った。80歳過ぎの女性がカウンタ−にいた。著名な作家の作品が壁を飾っていた。食事も、昔風の濃い目の味付けだった。太宰治がカウンタ−に座っていてもおかしくない風情だった。最近、どうもストレスが溜まる。気力が少し弱くなったのかもしれない。当面の目標が無いのも大きな原因。旬遊も、表紙の撮影を残すばかり、来週からは四国の写真を編集して来年2月のコダックの審査を目指す。その一休みかもしれない。


12月8日 22934 1246
日曜日。午後から家族写真のロケ撮影をした。年賀状用である。外は、木枯らしが吹き寒い。赤ちゃんは、なかなか笑わない。おかあさんが一生懸命笑っているだけ。お母さんの姉妹が来てあやし始めると、なんとか笑うが、一瞬。子供と初対面なので、笑ってくれるのは難しい。プロとして、違った写真を撮るしかない。悪戦苦闘の時間だった。夕方からは、旬遊の表紙撮影。これで3号に関しては、最後かと思うと感慨深い。しかし、最後まで試練はあった。お店を間違えた。創刊号でお世話になった店で撮影をしたが、先入観とは怖い物である。いくら待っても、誰も来ない。お店も開店する様子もない。編集長に電話しても、携帯がつながらない。デザイナ−は携帯を持たないので、事務所に電話しても当然いない。しかないのでコピ−ライタ−の平木さんに電話して、初めて店を間違えたことと、正しいお店が判り急遽行った。近所だったので良かった。撮影は、白っぽい器だったので、ハニ−を使い、硬い光にして撮影終了。非営利活動法人 港町宇品共和国で一緒に活動した、タクシ−の関係者の藤田さんの訃報を聞いた。びっくりした。残念ながら、お葬式にも出たれないスケジュ−ルなので、弔電を打った。

12月9日 22968 1257
月曜日。定期検診に行って来た。全く異常なし。元気が一番。午後から、瀬戸内海汽船の井藤さんと、3時間も話しをした。スタジオだと、雑用が入るので、瀬戸内海汽船の本社へ出向いた。話しの途中で、会長、社長をはじめ畑谷さん油目さんをはじめ幹部の方に挨拶をしながら、井藤さんとじっくり話しをした。宇品の事、宮島の事、八十八ヶ所の事、結論の出ない話しではあるが、大切な意志統一と情報交換である。最近、この時間がとれない。旬遊の終了したので、しばらくは、話しをする時間を作る。暗室に入る準備も揃ってきた。昔、時々行った「真珠」に行こうかと常連の佐伯さん電話で問い合わせたら、5年前に閉店したと言うことだった。そんなに、行ってなかったのかと思う。

12月10日 22994 1270
何となく1日が過ぎたようだ。午後から会議をして、ハガキの件を含めて今後の展開をスタッフ説明した。年賀状の作成と、15日から始まる、広銀宇品支店での「佐渡の風」写真展の準備をした。看板の制作。久しぶりに筆を持った。右手のハンデがまだあるので、十分な力が発揮出来なかったが、まずは、看板そして年賀状の文字を墨で書いた。夕方からは、デザイナ−の黒川さんの所に、旬遊の最後のフィルムを届けた。いよいよ12月24日に第3号が発売される。

12月11日 23015 1279
スタジオでは、年末の大掃除が始まった。スタジオのお客様も駆け足で注文に来られる。結婚式を撮った坂本さんもプリントをとりに来られた。母親そして若夫婦と別々に来られた。忙しい人たちが、なんとか時間を作って来ている。マイアルバムの注文のあった。それぞれに選ぶカットが違うので、完成までには、時間がかかりそうだ。肩のリハビリのあと、リクル−トに請求書の書類をもらいに行った。最近は、めったに行かなくなった。メンバ−も変わって来ているので、特定の人としか会う必要がなくなったのも原因の一つか?世代的にもギャップはあるのだろう。私的には、何の抵抗もないが仕方のないことかもしれない。しかし、リクル−トの仕事は、刺激的で面白いのでいつも楽しませてもらっている。

12月12日 23039 1285
木曜日は、定休日。午前中、広島銀行での写真展の最終チェックをした。ワイド2枚と全紙サイズを6枚。スペ−スの関係で、選ぶことになった。濱田守太郎さんの写真を中心にするか、人形を中心にするかが基準の分かれ目だった。午後からは、靴を買いに廿日市まで行ったが適当なものが無く。結局広島市内に戻った。サイズが、1サイズ小さくなっていたのには、驚いた。四国を歩いたのが原因なのかもしれない。時間があったので、宮島の先にある、zizoという店に行った。宮浜温泉の近くの海岸に出っ張った場所にお店がある。交通量の多い道なので、出入りが大変だが良いお店。ケ−キとコ−ヒを注文して、しばらく時間を過ごした。昔は、道路を挟んでお店が2軒あったが、海岸の店に統一していた。店主の長谷川さんは、不在のようだった。雨が降る1日だった。街中は、相変わらず人が多い。異国を歩いているような錯覚に襲わせる。

12月13日 23068 1295
金曜日は、ばたばたと忙しかった。瀬戸内海汽船の井藤さんが来て、スタジオで3時間くらい話しをした。その途中で、司会やレポ−タ−をしている土肥忍さんが来て四国の写真をみて、以前に撮った本人のネガを持って帰った。彼女も、30歳になったということ。月日の流れるのは早いものでホ−ムしスタ−ズにいたころからすると10年近い歳月が過ぎている。しっかりとした仕事をするようになったみたいだ。午前中は、やはりレポ−タ−や司会業をしている五反田曜子さんに電話をした。彼女は、昨年結婚をして、最近出産、育児に幸を感じているという。仕事のことで問い合わせをしたが、やる気満々。安心をした。土肥さんも多忙の中、やってくれるとのこと心強い事だ。夕方からは、広島銀行宇品支店に行き。写真展の展示をした。ボ−ド等を綺麗に改装した、ロビ−ギャラリ−での展示である。8枚の展示となった。濱田守太郎さんと人形立ちを並べた。さすがにモノクロでの展示は迫力がある。来年の1月16日まである。夜は、国土交通省の企画部長の三好さんと一杯やろうということになり、パルコの前で待ち合わせた。行きつけの店がないので、酒商ヤマダの淳二さんに聞いて長右衛門という串焼き屋へ行った。ついつい話しが盛り上がり、店を出たのが10時40分くらい。4時間近くも店にいたことになる。店にとってはいい迷惑だっいたろう。二人で閉めて5700円くらいだった。宮島の話が中心で、県知事や市長の話しにまで及んだ。下関市長とも知り合いらしく、話題にのぼった。楽しい時間を過ごすことが出来た。また、やりましょうと言うことで帰った。歩いて帰ろうかと思い、中央通りを歩いていると、リクル−トの井上さん伊藤さんにばったりあった。二人で食事でもしていたのだろう。井上さんの旦那である、岡さんが東京から転勤で帰って来ていることを知った。

12月14日 13091 1301
午前中から出発して、広島から30kmくらい離れた吉田へ行った。毛利元就にゆかりのある銀山城のあった場所の麓にある清神社(すがじんじゃ)。宮司の波多野さんは外出中だったので、資料館に行き絵を見た。それから、広島に引き返したが、分水嶺のある上根峠から白木町へ抜けるゆずりは街道に入った。はじめての道だったので、わくわくしながら進んだが、T字路に出たのでダンプに続いて右に曲がった。左に曲がると戻るような気がしたので右折した。すぐに道は細い山道になった。ダンプは、右折してすぐに広場に入って行ったのでダンプの通過出来るような道ではない。しばらく道なりに山を下って行った。どこかに着くだろうという感覚であった。突然、山の半分も切り出したような採石場に出た。右も左も荒々しく削り取られた山肌である。驚きを持って車を走らせた。入っては行けない場所に踏み込んだのではないかと思う。パトカ−は来るし、不安で一杯。道路標識は、大林へ行くと書いてある。大林がどこかが判らないので、そのまま進行した。結果は、上根峠の入り口(広島より)の54号線に出た、ただ、上根峠を別の道を使って降りただけの」結果だったが、久しぶりに興奮したドライブだった。3月末までの駆け込み道路工事が多く、渋滞はものすごいものがあった。帰ったも余り仕事はする気分にも慣れなかったので、残った事務処理をしたら閉店時間になったので、早々に帰宅した。

12月15日 23112 1310
日曜日は、静かな日々と予想していたが大変な時間となってしまった。午前中は、平木さんが旬遊の件で確認に来た。仏像の在処の確認などである。平木さんは、働き過ぎで眼底損傷をおこしパソコンを見てはいけないと言われたらしいが、締め切りに追われて目薬を差しながらの奮闘。会社を維持することとやりたい仕事を維持する事のギャップについて話しをした。午後からは、家族の写真を自宅まで行って撮影することになった。先日、公園で撮影したが寒くて、赤ちゃんが笑ってくれなかった。あたり前の話しである。知らないおじさんの顔を見て笑うはずはない。再度撮影ということになったので、今度はデジカメを使って、検討しながら撮影をした。そして、その場で絵はがきの絵柄を決めた。3時間もかかってしまった。採算の事は度外視の仕事であった。カメラマンとしてのプライドと完璧さを要求される仕事だった。やはり、先日撮影したガソリンスタンドから、電話があり、年賀状を急遽制作して欲しいと言うことだった。年末は、忙しい。

12月16日 23137 1317
月曜日、午前中の写真教室が休講になったので、仕事が大幅にはかどった。先日来より制作していた、ガソリンスタンドの年賀状、お客さまの年賀状の画像処理がほぼ終了した。現像所に行き、画像チェックをしたり、ばたばたした半日だった。お陰で、お寺の法要に間に合わなくなった。高橋さん宅に出来上がりを配達して、夕方からはサティの今年最後の写真教室があった。ゲストに以前写真教室に通っていた宇品の清水さんが来た。最近は、写真を撮ってないようだ。少し元気が出てくると良いのだが。とにかく忙しい1日だった。旬遊も最後の追い込みらしく原稿チェックの問い合わせが来た。

12月17日 23171 1324
火曜日、年末の気分が漂う。年賀状の依頼の制作が急を要する。ばたばたとチェック訂正する。なんとか、終了した。パソコンも容量がかなりオ−バ−してきているので整理しなくてはならない。フォトショップ6を削除した。現在は、バ−ジョン7を使用しているので構わないかとは思うが、不具合が生じては困るので慎重に行う。メンテの会社が来て、年間契約をして帰った。昼からは、成人式の前撮りがあった。外国の女性だった。考え方が違うので、正確に説明をして納得してもらいながら撮影をした。外国の女性は、大抵顔を剃らないので、産毛があり、反射することがある。鏡を見てもらいながらの撮影。顔の修整についても、話し合った。夕方、肩のリハビリに行ったが、いつもの担当者がいなく、違和感を持ちながら治療をしてもらった。帰りに旬遊の編集部へ行った。最後の追い込みの最中だった。定期購読をして下さった方にお礼を出そうと、名簿を見せてもらった。四国の方の定期購読もあった。
編集も撮影は、終了したらそれまでだが、本に作るのは、そこから大変な作業があることを知った。

12月18日 23201 1335
スタジオの年賀状が仕上がって来た。印刷なので、どこかに手作りの要素が欲しく落款を押した。900枚。3時間くらいで終了した。あとは、切手・宛先・年賀印を押さなくてはならない。ガソリンスタンドからは、急いで欲しいという要請が来るが、いかんともしがたい。忘年会をした。例年に比べると早いが、いつもばたばたするのでちょうどいいタイミングで出来た。リオンという洋食屋さん。50年も続いたお店。太宰治が出てきそうだ。濃い目の料理は、みんな満足していた。コ−ヒ−を飲んで帰った。マニアックな店だったが、味はなかなかだった。

12月19日 23209 1345
木曜日は、久しぶりに時間の余裕が出来たので福山に行った。陶芸家の香山さんが交通事故をおこして入院中。背骨の一部を損傷したとの連絡が入ったのは、2週間くらい前。思ったより元気そうだったが、おなかのあたりにギブスをしていた。本日はずして、本格的なリハビリが始まるとのことだったが、12月に予定していた窯入れは延期となっていた。春先までは無理ではないかと思う。結局、福山行きだけで1日が終わってしまった。こんな日があってもいいかもしれない。最近、何かと気ぜわしい日々を暮らし、ぎすぎすしてきた。四国の旅の頃がなつかしく思われる。今は、ストレスの塊のようになっている。来年の写真展に向かって、心を浄化しないと困る。これも、自分自身を焦らせる原因にもなる。

12月20日 23240 1357
金曜日は、土曜日の前とあって何かとバタバした気分。山陽オイルさんの画像処理をした写真が出来上がって来た。綺麗に出来ている。早速納品である。午後からは、観光コンベンベンションビュ−ロ−に行き、有本常務理事と沖本課長に面談をした。写真家としての立場及び非営利活動法人 港町宇品共和国の立場を説明して、今後の展開についてや意見交換をした。3時間にも及んだ。最近、じっくりと話しをしてみることにした。まず、相手の考え方を聞いてみないと判らない。宮島を含めて、観光についてコンベンションの立ち場が理解でした。雪の厳島を撮るべく準備をした。

12月21日 23252 1368
土曜日は、前日の夜から雪が振り出し宇品にも積もった。宮島に行きたくなり、早朝から起きだして準備に入った。車では行けそうもないので、宇品〜宮島へに高速船で行くことにした。広島プリンスホテルの桟橋を経由して30分弱で行く。残念ながら、始発が平日は遅く、9時25分と判りがっかり。しかたなく船に乗ったが、お客さまは、私を入れて4名しかいなかった。採算のとれない航路かもしれなし。料金も往復で2800円。少し割高感がある。時間的な事を言えば、陸路を行くより30%程度の時間で行ける。すでに、宮島の港は、観光客が冬場にしては、たくさんいた。リュックを担いで写真を撮りに来ている人も多くいた。たぶん、雪の厳島神社を狙って来ているのだろう。私の目的は、違うので、町屋通りを通過して、ギャラリ−宮郷へ行き、挨拶もそこそこに弥山を目指した。すでに下界では雪は解け始めていた。時間がもったいないので、ロ−プウェイでまず、頂上近くまで登り、30分程歩き、88番札所のある本堂にお参りし、消えずの火のある霊火堂に行き、頂上を目指した。さすがに500mを越す高さなので、雪が舞道は軽く雪に覆われ、石段は凍結していた。頂上の展望台に着いたが、5〜6名くらいの人が茶店にいた。私は、まず展望台にあがった。外国の人が、登山の格好をして立っているだけだった。広島方面は、すっきりと晴れ、」山々は白くなっていた。極楽寺から宮島口あたり方面は、雪が降っているのか真っ白で何も見えなくなっていた。巨石を撮り始めると、下界の海は、太陽の輝きで光っていたが、雪雲が頂上付近を覆い、吹雪となった。しばらく何も見えない状態。カメラは、寒さの為か、バッテリが点滅を」始めて、ちゃんと機能しない。露出も思いつかない数値を表示する。本当に写っているのだろうかと心配しながら、しばらく展望台に、一人立ち写真を撮った。佐渡の矢柄の人形を撮った時の事を思い出した。今日、どうして宮島に行きたくなったのか理解できた。どうして、来い来いと言うのか判らなかったが、この景色を見せたかったのだろう。茶店で、甘酒を飲んで、下山を開始した。大日堂を通過して御山神社に行き大聖院を目指して下山した。本当は駒が林を通過して大元神社に降りるル−トを考えたが、今日の天候を考えると、下りの石段は、凍結してかなり危険な状態にあるし、あまり人が通過しないル−ト、あわせて大聖院の座主さんに会いたかったので、無難な道から下山した。しかし、この道もかなり凍結したところが多く、下りは危険であることを知った。大聖院で、座主さんと会い立ち話をしたのちに、宮郷さんに荷物をおいて近所のお好み屋さんに行き、遅い昼食を食べしばらく宮郷さんのところでコ−ヒ−を飲んだ後に菊川さんに会いに行き、高速艇で帰った。17時の船であった。今回は、荷物を軽量にする事もあり、ライカのボディ及びレンズ3本持参。重ね着の出来るように衣料はたくさん持って行ったが、ほとんど使うことはなかった。

12月22日 23289 1374
静かな日曜日だった。弥山登山の後遺症から足腰が痛い。我ながらだらしないと思うが、四国からすでに6ヶ月も経過している。身体がなまって当然だろう。本当に昔の事のように思われる。旬遊もまもなく3号が発行される。四国から帰って、2冊目の発行である。特別非営利活動法人 港町宇品共和国の事で、次の展開を考えて見たが、協力してくれる人材が見つからない。波長がいまいち合わない。彼の言っていることが正論とは思うが、私の主義に合わない部分がある。彼のやり方の方が、進行し出すと必ず失敗しない。しかし、前に話しが進まない。企業とした方がいい。NPOの将来の大きな問題点だと思う。昼前に成人式記念撮影の前撮りを希望されている方の母親が、わざわざ電車に乗って遠くから来られた。作品とシステムの確認に来られた。始めて取引の始まった美容室からの紹介なので、無理はないし親御さんとしては、一生に一度の危険撮影なので心配だったのはよく理解出来る。年賀状の準備も最終段階に入っている。全部で900枚くらいあるので、スタッフと分業して作業している。宮島関係の福島さんからもメ−ルが来ていた。宮島の雪に興味があったみたいだ。

12月23日 23305 1379
四国が遠くなった気持ちがある。考えてみれば、結願からはや6ヶ月が経過する。その間に、世俗の事がが嵐のようにのしかかって来た。久百々の女将さんの日記が唯一の四国のパイプラインになっている。些細な事が書いてあるが、そのことが新鮮に聞こえてくるのは、悲しい思いもする。先日も弥山に登り、改めて四国の事を思い出した。体力的に来る石井事はたくさんあったが、心の開放感とまわりにいる人々の優しさやいたわりは、もう味わうことが出来ないかと思うと悲しかった。たぶん、お遍路仲間の人たちも、同じような感傷に襲われているのではないだろうか。久しく、遍路仲間の人たちから連絡が無いのも、うなずけるような気がする。まもなく旬遊が発売され、お遍路コ−ナ−の第2弾が掲載されるが、遠くを眺めている、おばあさんの目にそんな悲しさを感じてしまうだろう。月曜日は、体力的に辛い日だった。健康のすばらしさをつくづく感じた日だった。

12月24日 23333 1389
祝日は、案外暇であった。家族写真のお客さまが1組、年末に駆け込みで来られた。今年は、曜日の関係か年末が早い。10年間に来られたお客さまが、3代女性と男の赤ちゃんを連れて来られた。嬉しい限りである。残りの時間は、年賀状の切手貼りとスタンプ押しで終わった。夕方になって旬遊が出来上がったとの連絡を受けて、編集部にとりに行った。今回は、かなりしんどい思いをして撮影をしたので、感動も大きい。出来上がりも想像以上に良いので嬉しく思った。45ペ−ジくらい関わっているので、かなりのウェ−トを占めている。早速付箋を貼り、送る準備をしなくてはならない。

12月25日 23403 1405 
24日は、午前中で用事を済ませて、あわただしく旅立った。三和の森のウインズコ−トホテルに宿泊するためである。昨年は、サンタクロ−スの宅配便の行事をしたために行けなかったが、今年は早々に予約をしていた。格安ということもあり、近所に備前焼工房があるので香山さんにも会えるということもあった。香山さんは、交通事故の為、退院はしたが実家に帰ったので25日に会うことにした。宇品は雪のかけらもなかったが、さすがに高地にあるホテル、国道も測道にはだんだんと雪が見え始め、ホテルの近くは、道路が雪で見えない箇所もあった。坂道なので、一応はホテルまで登って行ったが、結局ホテルのスタッフの方にすすめにより、国道の近くの道の駅の駐車場に置いて送迎をしてもらった。ノ−マルタイヤの人も数組いて、同じようにしたらしい。格安なので、料理は十分と言うところまではなかったが、お腹は一杯になり、ワインを飲み、風呂に入ってくつろいだ。このような事が、あと何年続けられるのだろうかとしみじみ考えた。夕方、散歩に出たが、池には、薄い氷が張っていた。サギの足跡が雪についている。

12月26日 23426 1410
ゆっくりと日の出を眺め、温泉に入ってからホテルを出て。道の駅まで、ホテルの車で送ってもらった。3組が便乗した。雪は解け始めていたので、一部はまだ雪道ではあったが何とか走れそうなので、道の駅から備前焼工房の香山さんの所まで、車で登った。舗装道路でないので、逆に雪は解けていた。痛々しいギブスを腰から胸につけていた。昨日退院したと言うことだったが、働き始めていた。一つの茶碗を作るのに30分もかかってしまったとぼやいていた。しばらく雑談をしてから、帰途についた。道の駅は、相変わらず繁盛している。国道は、完全に雪は解けているので、一気に山陽道に入り4時すぎには宇品に帰れた。

12月27日 23467 1417
官庁関係は、ご用納めだった。余りにも早い時期なのでびっくりした。旬遊の発送準備をしているうちに午前中が終了してしまい、午後からは瀬戸内科汽船の井藤さんを訪ねて、本社に行きトラベラ−ズの部長と面談をした。その間に、会長・社長・常務・畑谷さん・油目さんとどんどん挨拶が出来る。話しは、どんどん進んでいく。4時前になりあわてて残りの訪問先へ急ぐ。港湾振興局の福田局長に、2.3号の旬遊を届けた。不在であった。挨拶まわりに忙しいのだろう。日の丸産業の河尻社長を訪問して旬遊を届けた。すでにnewsで送った情報で、HPを覗いていたのである程度は知っていた。忙しそうだったので、すぐに挨拶を済ませて今度は、鉄砲町にある、モリトモ美容室に受注されていた写真集と旬遊を届けた。時間も押していたので、そのまま、リハビリに行った。最後の治療だった。だいぶ肩が上がるようにはなったが、まだしばらくは通院が必要だ。女房は、友人と忘年会に行ったので、静かに自宅で食事をして、いつの間にかこたつで寝入ってしまった。模倣犯を半分ぐらいまでは見たが、ラストを見損ねた。

12月28日 23486 1430
TKプロジェクトについての会議をした。2年前に理想に燃えて、婚礼サポ−トチ−ムを作ったが、こちらのスタッフの能力不足で、挫折していた。辞めようかと思っていたが、皆さんが再度やろうという声をかけて下さったので、再び集まった。具体的な方法も提案され、有意義な会議となった。目の前が明るくなるような進展である。議事録も作成され、みんさんに配布した。午後からは、特別非営利活動法人 港町宇品共和国の納め会議があった。旬遊についての皆さんの感想も、ぼちぼち来だした。反省会に参加出来ないのが残念だが、次号もうまく行くことを願っている。

12月29日 23516 1437
年末最後の成人式の撮影があった。少し、ヤンキ−系かなと思ったがただ、照れくさいだけの素直な女性だった。始めての美容室からの紹介。髪飾りなども、最初にお願いしていたので、頭の左側に付いていた。スタジオを閉めることが出来ないので、旬遊の反省会には出席出来なかった。たぶん、同じような意識を持って意見が出たと思う。発注・受注の関係だけではなかなか良いものは出来ない。反省会が出来るのはいい事だと思う。サンタクロ−スの衣装を返しに来られる方、写真を受け取りに来られる方など、ばたばたとしていた。吉井さんも突然に来られた。瀬戸内海汽船のカレンダ−を持って来て下さった。ゆっくりと話しをすることが出来なかった。TKプロジェクトの議事録もみんなに送ることが出来た。

12月30日 23549 1443
スタジオの営業も、最終日。静かにくれていく。ゆっくりとした仕事が出来た。旬遊を送る先の最終チェック。追加発送の用意。年末のお礼のメ−ルの送信。TKプロジェクトについて瀬戸内海汽船の白倉常務とのすりあわせ等。年末にやっておくことを淡々とこなした。残り2日は、写真展の準備に使いたい。そんな思いがのしかかる。亜子(長女)が午前中に東京から帰ってきた。一緒にお好み焼きを食べる。加恵(次女)も23時頃の新幹線で帰ってきた。なんとかがんばって起きていた。

12月31日 23575 1448
ぼちぼちと旬遊の感想を知らせて下さる方がいる。今回は、精一杯やったという充実感がある。コピ−ライタ−の平木さんとも、コミュニケ−ションをとって活動をしたのでペ−ジの違和感を感じない。デザイナ−の黒川さんの写真の選択も、的確なものがある。人物のアップを多様しないようにという、編集部の依頼があったが、この点は、自分自身の考え方が違うのは、残念だが仕方のないことと割り切ることにした。平岡さんのペ−ジがそうであった。アップを使って欲しかった。午前中に、佐渡の写真の選択を済ませた。全部並べて見た。そして、感覚的にセレクトして、100枚に絞り、そこから60枚に落とした。ちょっと時間をおいて、50枚前後に絞り込む。ニコンのギャラリ−で個展が出来るようにする。厳しい審査なので、
通過は至難の業かもしれない。今まで経過からいくと、作品のレベルではなく、テ−マの絞り込みに自分自身の甘さがあった。これを自分自身で解消しなくてはならない。そそて、四国お遍路の作品展に向かう。来年の大きな目標に向かって進むことになる。昨日、神戸の種子島さんにも電話をして、パワ−をもらった。最終目標は、ニュ−ヨ−ク。がんばらねば。






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